にぽぽのお散歩日記

お散歩中の景色、美味しいもの、お気に入りのものを気のむくままに綴っています。

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2019-08-02 (Fri)

唐津 城下町そぞろ歩き その3

唐津 城下町そぞろ歩き その3

ども にぽぽです=*^-^*=やっと、やっと唐津城へ向かいます~!唐津城は、豊臣秀吉の家臣・寺沢広高が慶長7(1602)年から7ヶ年の歳月を費やして完成したと伝えられています。本丸は満糸島の山頂に配され、東側は松浦川を掘としています。城内橋を渡って、唐津城本丸に向かいます。本丸側の城内橋のたもとに舟入門が整備されています。舟入門は、藩主の参勤交代の際の出入りや、御蔵への納入物品の出入りに利用されました。当時...

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ども にぽぽです=*^-^*=





やっと、やっと唐津城へ向かいます~!



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唐津城は、豊臣秀吉の家臣・寺沢広高が慶長7(1602)年から7ヶ年の歳月を費やして完成したと伝えられています。

本丸は満糸島の山頂に配され、東側は松浦川を掘としています。



城内橋を渡って、唐津城本丸に向かいます。



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本丸側の城内橋のたもとに舟入門が整備されています。



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舟入門は、藩主の参勤交代の際の出入りや、御蔵への納入物品の出入りに利用されました。

当時の舟入部分は埋め立てや道路となり確認できないとのことですが、舟入門公園として整備されているおかげで雰囲気はよくわかる!





唐津城への登城口



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お城のふもとに駐車場が整備されたり、住宅地となったりしているので、わぁ~お城だ~♪という雰囲気もない細道になっております。



まずは満糸島の外周に沿って歩いてみます。



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海に接する外周部分も石垣でしっかり囲んで腰曲輪を形成しいくつもの櫓が立ち並んでいました。





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櫓と腰曲輪



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海の際から石垣がそそり立っている感じですね。



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櫓の跡と思われます。



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恐っ!



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腰曲輪をぐるっと歩いていくと、天守へ直行できる有料エレベーターがあります。



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エレベーターが用意されるほど急峻なのか?と日頃運動不足の私、かなり怯んでエレベーターの誘惑に負けそうになりますが、グッと堪えて本道を行こう!





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旗を手にしたガイドさんに導かれエレベーターを目指す御一行がやって来ます。

本道を行く決意がグラグラ揺らぐwww



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なんやかんやで本丸への登り口まで戻ってきました。


坂口門

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本来お寺にありそうな多宝塔が建っています。



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唐津城築城以前は、松浦川や町田川の水害救難の津守として、この辺りには寺社が集まっていたそうです。

この多宝塔は、海仙寺のものと伝えられています。現在は、屋根、石相輪等が失われて塔身のみ残っています。





さあ、登るぞーーー!



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石段は231段。

本丸まで一直線で進入出来る構造は防御面を考えると不利になると思うのですが、

唐津城は本丸にたどり着くまでには、三ノ丸、二ノ丸を囲う堀や門をいくつも通らなければならない連郭式の縄張りをとっているし、片側は唐津湾、守りは盤石という訳です。



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左手には二ノ曲輪を囲う立派な石垣が続いています。



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どうですが、この鋭角な隅石の美。(←変わらぬ石垣フェチぶり)



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たまりませんな~。(←しつこいぐらいに眺めまわす)





さて、石段の先には、堅牢な構えの総締門の虎口がありました。



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総締門の礎石が残っています。



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がっちり守りを固める枡型門の構え。



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231段を登り切ると、天守のそびえるニノ曲輪。



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石垣の修復工事中でした。



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石垣も長い年月で緩んで外側に膨らんできてしまうので、今、あちこちのお城で石垣の修復がなされていますね。

次の世代に引き継ぐための大事な工事だと思います。





ニノ曲輪の井戸。



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こんな高い場所で水を確保するのは大変だと思いますが、水は戦いの重要な備え。





金毘羅様も祀られていました。



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本丸西門への階段。



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修復の終わった天守を支える石垣。



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緩みのない直線。見事な出来栄え。





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西門を潜り、天守閣へ入ります。



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天守閣は昭和41(1966)年に建てられたコンクリート製もの。

2階の唐津の歴史フロアや、3階の唐津焼フロアを見学しながら5階の展望フロアまで登れます。





歩いてきた三ノ丸の方向。



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足元は早稲田大学系属 早稲田佐賀中学校・高等学校。



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ここがまるっと、藩主が住んでいたニノ丸に当たります。





日本三大松原のひとつ、虹の松原方面。



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もともとの自然林から防風林、防砂林として唐津藩の藩主である寺沢広高が植樹を行ったもの。

藩主の改易や移封により主家が変わっても手厚く管理されたので、現代にも美しい景勝地として残っているんですね。





唐津城の謎、南蛮大砲です。



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大阪の陣があった17世紀前半のものだそうで、昔から唐津城の天守台にあったそうです。

なぜこの大砲が唐津城に存在するのかは謎なのですが、近年、大砲の刻印が「ドラゴンの紋章」と判明し、イギリスで製造されたことが解りました。初代唐津藩主・寺沢広高の時代に輸入された大砲である可能性が考えられるそうです。





日本のお城の天守にイギリス製の大砲が置かれた経緯、いつか謎が解けるといいなぁと思います。





これで終わりかと思いきや、なんとまだ続くのでした~(汗っ)








今日も最後まで読んでくれて、どうもありがとう~~~ヾ(^∇^)

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No Subject * by hisami
お城はおいそれと~天守閣には
近づかせてくれない構造
エレベーターの誘惑によく打ち勝つ事が出来ましたね(笑)
今の酷暑の中なら間違いなく
エレベーターに乗ってたでしょうね(笑笑)

管理人のみ閲覧できます * by -

No Subject * by にぽぽ
鍵コメくださった方、ありがとうございました!こっそり直しました!

2019-08-11 (Sun)

唐津 城下町そぞろ歩き その4

唐津 城下町そぞろ歩き その4

ども にぽぽです=*^-^*=いつまでお終わらない唐津城下のそぞろ歩き。そぞろ歩きの域を超えているな。本丸の階段を下りきった突き当りは、昔の二ノ丸にあたる早稲田大学系属 早稲田佐賀中学校・高等学校。エレベーターの方に戻る感じに歩いていきますと、途中で道の分かれ目。左側にニノ丸(現在の早稲田佐賀中学校・高等学校の敷地)の石垣。細身の野良ニャンコが顔を出してました。御住居・学問所の説明板。この中に藩主の住居...

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ども にぽぽです=*^-^*=



いつまでお終わらない唐津城下のそぞろ歩き。

そぞろ歩きの域を超えているな。





本丸の階段を下りきった突き当りは、昔の二ノ丸にあたる早稲田大学系属 早稲田佐賀中学校・高等学校。



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エレベーターの方に戻る感じに歩いていきますと、



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途中で道の分かれ目。



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左側にニノ丸(現在の早稲田佐賀中学校・高等学校の敷地)の石垣。





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細身の野良ニャンコが顔を出してました。





御住居・学問所の説明板。



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この中に藩主の住居と多くの藩士が毎日出仕していた藩庁が置かれていました。



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現在の学校のグラウンド部分には蔵や馬場などがありました。





二ノ丸の前は浜が広がっています。



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本丸の方に目を向けると、



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先ほど歩いた腰曲輪の全貌が明らかに。

浜は、修復中の石垣の石の置き場になっています。工事はまだまだ途中なんですね。





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二ノ丸の石垣沿いの道は「石垣の散歩道」と呼ばれています。





唐津藩士たちが日常歩いていた道だということを感じられる道。

ちょっと振り返ってみましょうか。



20190711-131.jpg、t



やっぱり天守はあった方が箔が着く!

唐津藩の藩士たちは、きっと天守は作りたかったんだろうなぁ~。

徳川幕府の目を気にして天守を作らなかったのではないか、との見方が濃厚なのです。

唐津藩初代藩主の寺沢家はもともと秀吉の家来で外様な訳ですから、怖かったんでしょうね、徳川幕府が。





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武家屋敷の門も残されています。







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二ノ丸をすぎて三ノ丸北側の石垣。

海に面してずーっと石垣が築かれています。







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まっすぐだった道に変化がでるこのポイントには、埋門がありました。

埋門を出て左(南)に行くと唐津神社へ続く 埋門小路。





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右に曲がると浜に抜ける道。



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道の幅も藩政時代のまんまという感じ。

私は、三ノ丸にそってまだ真っ直ぐに進んでいきます。



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城下町っぽい筋交い。



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こんな風に江戸時代の町割りの石垣が現代にそのまま残っているという場所も

珍しいかもですね。



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そろそろ三ノ丸の北西の端が見えてきました。



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本丸の石垣は改修が進んでいますが、二ノ丸、三ノ丸の石垣はかなり荒れてきています。

順々に整備されて、これから先も石垣のある風景な残るといいなぁと思いました。





曲がって、三ノ丸の西端。



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三ノ丸の北西端であるこの場所には西ノ門がありました。



唐津藩は寺沢家、大久保家、松平(大給)家、土井家、水野家、小笠原家と藩主が交代しています。

西ノ門は藩主交代の時、旧藩士たちの出口となりました。



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ちなみに、ここを本丸の方にまっすぐ進んでいくと、三ノ丸とニノ丸の間にあるニノ門。





唐津駅の方向に進もうとすると、石垣が見えません・・・。



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見えませんが、唐津市役所の水道管理課の建物側の裏てに石垣の名残の土塁などがあります。



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唐津市役所まで戻ってくると、三ノ丸の南西端の石垣が再度お目見えです。



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ここをまっすぐ進めば大手口(2019年7月20日の日記⇒唐津 城下町そぞろ歩き その1)です。



唐津の町、ぐるっと踏破!





さてさて、お昼ご飯を食べに行きましょう!



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唐津駅の近くにある檸檬樹さん。



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『唐ワン伽哩(カリー)』を提供していると聞いてやって来ました。





『唐ワン伽哩(カリー)』って、要するにカレーなんですが、佐賀は一世帯あたりのカレールゥ消費量が全国1位なんだそうですよ。

そこで、唐津城のイメージキャラクター「唐ワンくん」が

一 カレーライスの他、麺やパンにするも良し!

二 必ず、一品以上、唐津市の食材を入れるべし!

三 唐津ならではの、店主のこだわりを入れるべし!

の三つの条件を満たしたお店ごとのオリジナルカレーをのご当地グルメ『唐ワン伽哩(カリー)』として、熱烈応援しているものらしいですよ。





檸檬樹さんの『唐ワン伽哩(カリー)』



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食パンの上にカレーが塗ってある品物ではないですよ。

焼きたての食パンの中央がくりぬかれており、あつあつのカレードリアがずっしりと盛り付けられているんですよ。

器事食べられるカレードリア!



炭水化物 in 炭水化物 バンザーイっ!!



いや、マジでこれ、美味しかったですよ。

パンも美味しいし。



唐津に行った際にはぜひご賞味あれ。






今日も最後まで読んでくれて、どうもありがとう~~~ヾ(^∇^)

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No Subject * by イノぶた
にぽちゃん

ぐるっと回ったのね すごいなぁ~
愛がハンパないわ 笑)
カレーの新しい食べ方かもしれないね
ドリアとパン不思議~ ^^




2019-08-24 (Sat)

佐賀 復元された弥生集落 吉野ヶ里遺跡 その1

佐賀 復元された弥生集落 吉野ヶ里遺跡 その1

ども にぽぽです=*^-^*=「一生の行かな気がする都道府県ランキング」の上位に入る佐賀県。そんな佐賀県が熱く注目されたのは、元号が昭和から平成に変わったばかりの1998年2月。『魏志倭人伝』の世界を彷彿させる遺跡の発見と報じられた吉野ヶ里遺跡発掘のニュースでした。連日ニュースに取り上げられた「吉野ヶ里フィーバー」は私の記憶にも残っていて、いつか行きたいと思っていた吉野ヶ里遺跡についにやって来たのでした!!...

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ども にぽぽです=*^-^*=


「一生の行かな気がする都道府県ランキング」の上位に入る佐賀県。
そんな佐賀県が熱く注目されたのは、元号が昭和から平成に変わったばかりの1998年2月。
『魏志倭人伝』の世界を彷彿させる遺跡の発見と報じられた吉野ヶ里遺跡発掘のニュースでした。

連日ニュースに取り上げられた「吉野ヶ里フィーバー」は私の記憶にも残っていて、いつか行きたいと思っていた吉野ヶ里遺跡についにやって来たのでした!!

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駐車場も広いが、入口も広い。

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吉野ヶ里歴史公園のマスコットキャラクター「ひみか」ちゃんのいるところで入場券を買うが、遺跡のイの字も見えない・・・。
そして昨日までと打って変わった爆発的なよい天気、暑いっ!

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無料貸してもらえる日傘を入手し、天の浮橋を渡ってイザッ!弥生時代へ!


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弥生時代は紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃までにあたる時代です。
動物や木の実を採取することから、コメという食料を生産するようになったのが弥生時代なのです。



遺跡エリアの入口です♪

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コメ作りが盛んになるにつれて、水や土地を奪い合う争いが起こるようになりました。
人々は自分たちの集落を守るため、周囲を濠で囲み、さらに掘る際にできた土を使って土塁を築きました。


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入口など特に重要な区域には、尖った枝や幹で侵入しようとした敵を脅す、「逆茂木(さかもぎ)」というものでバリケードを築き、より厳重に守っていたんですって。

発掘当時の状況はこんな。
無数に見つかった土坑跡から「逆茂木」は復元されました。

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土坑穴は濠の外側にあったのですが、復元された「逆茂木」は濠の内側にあります。
防御施設が濠の内側にあるのはおかしいのですが、遺構の保護のためになされた処置です。

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土塁の上の柵の跡も、発掘では発見されていません。
あくまでも復元なんで、こんなだったんじゃないかなーってところもあることを理解して楽しむことが大事o(^ー゚)


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とにかく広いので、案内表示の通りに「南内郭」の方へ進みます~。


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木が生い茂り、自然のまんまのように見えて、道は舗装されているので歩きやすい。

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木の枝に紛れさせてミストが噴き出してます。
熱中症対策も万全。暑いんで・・・助かる~。


建物が見えてきた~!

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ここは「南内郭」です。

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門には正門と脇門があり、正門は監視をするために櫓門になっています。

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兵士が厳重に入口を守っていたようです。
「南内郭」は吉野ヶ里の「国」のリーダーたちが暮らしながら、「国」の政治を行っていた場所と考えられています。

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環濠内には十数棟の竪穴式住居が建てられていたと推測されています。

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縄文時代の竪穴式住居よりも少し大きい感じです。

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縦穴はかなり深く掘られているので、天上が高い。
余裕で立てるし、四畳半ぐらいの広さはあるんじゃないかな。

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炉を中心に二本の柱で屋根を支えている構造でした。
ただし、中に入っても大丈夫なように竪穴をコンクリート(?)で固めて、照明もつくように加工しているので、風が通らずメチャクチャ湿度が高くてサウナのようです。とにかく蒸し暑い(><)



煮炊屋

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集会の館

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ひときわ厳重に守られた住居があります。

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「王の家」です。
弥生時代には農耕の発展に伴い貧富の差が生まれ、それが身分の差につながったと考えられています。
農耕などの共同労働を指導したり、民衆の利害関係を調整するリーダーが現れ、さらにリーダーたちを統率する「王」が誕生したのです。


吉野ヶ里遺跡の内郭には、木柱跡が発見され、現在それは物見櫓が復元されています。

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青森県の三内丸山遺跡の櫓(2019年06月30日の日記⇒青森 三内丸山遺跡で感じる縄文時代の息吹!agein!! )を彷彿としますな。

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安全に登れるように頑丈な階段が作られてます。
高所恐怖症の私でも楽勝!ありがたいっ。


物見櫓から見る「南内郭」の眺め。

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環濠の様子。

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南内郭の土塁は高く積まれていて、がっちり防御されているのが分かります。


彼方に見えるのは庶民の暮らすムラ。

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足元を見下ろすと高床倉庫群があります。

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「南内郭」に住む人々の食料を備蓄していたものと推定されています。


北側は、これから行く「北内郭」の大きな建物が見えています。

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ということで、次に続きます!


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No Subject * by hisami
青森の三内丸山遺跡も駐車場が広くて
入口も広かったわね(笑)
縄文~弥生で稲作が始まり
領地を広げるために諍いが始まった~って
三内丸山遺跡のガイドさんから教えて貰いました
佐賀の吉野ケ里遺跡も楽しそう♪

No Subject * by イノぶた
私は 10年前位に行ったかな?
吉野ケ里遺跡 ^^
近くのホテルにも泊まったなぁ~
観光半分 仕事半分で連れて行ってもらいました。
暑い日の野外は なかなか答えますね 💦


2019-08-28 (Wed)

佐賀 復元された弥生集落 吉野ヶ里遺跡 その2

佐賀 復元された弥生集落 吉野ヶ里遺跡 その2

ども にぽぽです=*^-^*=本日の日記は長いので、写真はサムネールにしてあります。大きい写真を見たい方はダブルクリックしてみてください。「国」のリーダーたちが暮らした「南内郭」から「北内郭」へ向かいます。環濠集落の最も北のエリアは、吉野ヶ里の「国」のまつりごと(祭りや政治)を行う神聖な場所であったと考えられています。南内郭と北内郭の間には数棟の竪穴式住居と倉庫がある「中のムラ」と呼ばれる場所があります...

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ども にぽぽです=*^-^*=
本日の日記は長いので、写真はサムネールにしてあります。大きい写真を見たい方はダブルクリックしてみてください。


「国」のリーダーたちが暮らした「南内郭」から「北内郭」へ向かいます。

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環濠集落の最も北のエリアは、吉野ヶ里の「国」のまつりごと(祭りや政治)を行う神聖な場所であったと考えられています。


南内郭と北内郭の間には数棟の竪穴式住居と倉庫がある「中のムラ」と呼ばれる場所があります。

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司祭者に仕える人たちが「北内郭」でのまつりごとの準備や、それに使うものを作りながら暮らしていたと考えられています。

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倉庫には、まつりなどの行事で使われる道具やお供え物、宝物などが納められていました。


南内郭&北内郭
(地図はGoogle Earth を利用したもの)



「北内郭」の巨大な建物が近くなってきました。

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「北内郭」の入口

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「北内郭」は二重の濠に囲まれています。

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わぁ~っ迷路みたいーーっ!

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まぁ・・・

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この柵もですね、重要なエリアは厳重に囲われていただろうというイメージで復元されてますが、板柵の跡は発掘されてません。


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迷路を抜けると、
ドーーーーンと、

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3階建ての主祭殿。


ここも安全な階段が作られており、2階に上がると、

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王とリーダー達が会議の真っ最中です。
田植えや稲刈りの日取り、戦いや狩りなど重要な事柄は全てここで決定されたと考えられています。


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扇風機も最強で回っているので涼しい。
熱中症への対策がどこもかしこもスゴイ。

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この四角い機械に近づくと、プチドラマ付で「国」のまつりごと解説が始まります。
前触れもなく機械がしゃべりだすので、超ビビりますが、とてもわかり易く説明されているので、のんびり見るのが良きです。


3階では司祭者が神の信託を受けております。

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その後ろでは、

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やっぱり扇風機が全力で回っています。



竪穴式住居と高床住居

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「北内郭」の中にある唯一の竪穴式住居は、最高司祭者の最も身近に仕え、その世話に当たる従者の住居であったと推定
されています。

その横にある高床住居は、神聖な「北内郭」の中にあり、他の高床倉庫とは違ってほぼ正方形に近い形をしていることから、吉野ヶ里の最高司祭者の住まいだったと考えられています。



高床住居の中

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最高司祭者は一般の人々の前にはほとんど姿を現さなかったと推測されています。



斎堂

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まつりの時に身を清めたり、まつりの儀式に使う道具などが置かれていた施設と推定されている建物です。



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内濠から出たところには、

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東祭殿という建物があります。


「北内郭は」、アルファベットのAの字のような左右対称の形をしています。

夏至冬至ライン
(地図はGoogle Earth を利用したもの)
※夏至、冬至のラインは正確ではありません。

Aの字の中心軸は、夏至の日の出と冬至の日の入りの方向と一致していて、その線上に東祭殿がることから、東祭殿は季節ごとのまつりの儀式が行われた施設と考えられています。
何度も建て替えられた跡があることから、まつりなどが行われるたびに建て替えられたのかもしれないそうです。

夏至冬至のラインと「北内郭」の位置から、「北内郭」では太陽などの運航の観測も行われていた可能性がありそうです。
日本人と太陽の関係とか、まつりの度に建て替えられる建物というと、伊勢神宮や出雲大社の式年遷宮とかにつながっていってるのかなーとか、日本という国の成り立ちを感じることができました。


さて、お腹もすいてきました。
吉野ヶ里の遺跡ゾーンにはレストランがないので、入口まで戻ってお昼ご飯にしたいと思います。

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遺跡ゾーンから入口まで戻ってくるのも、広いので結構大変!
レストランは明るくてキレイ。食券を買うスタイルです。

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レストラン一押しの“古代貝汁御膳”を選びました。

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有明海産のアサリを使った貝汁。

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佐賀で飼養されているみつせ鶏のから揚げと、みつせ鶏のまぜご飯。
うっすら桃色のおにぎりは、弥生時代から食されていた赤米です。
そして、ムツゴロウ。

アサリの量が、これでもかーーーーーっと、すごかった。


弥生人のご飯でエネルギー充てんした後は、吉野ヶ里の吉野ヶ里たるものを見に行きます!!


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No Subject * by イノぶた
すごいね~ 綺麗になってる!
いろいろ変わったみたいですね ✨
お外が暑いんだから 
建屋内も暑でしょうね (;^_^A
扇風機だけだと熱風吹かせてるだけって・・・
古代貝はあさりなんだ~💛
いっぱい入ってるってうれしい限りね!



No Subject * by hisami
弥生人ご飯~超美味しそう♪
貝の量が半端ないですねぇ
ムツゴロウ!”美味しかった?(笑)

2019-08-31 (Sat)

佐賀 復元された弥生集落 吉野ヶ里遺跡 その3

佐賀 復元された弥生集落 吉野ヶ里遺跡 その3

ども にぽぽです=*^-^*=本日の日記は長いので、写真はサムネールにしてあります。大きい写真を見たい方はダブルクリックしてみてください。吉野ヶ里遺跡を特徴づけるものに甕棺墓があります。甕棺墓は、高さ1m以上の素焼きの巨大な土器を棺としたものです。九州北部の佐賀県東部と福岡県西部でとくに盛んにおこなわれた墓制です。その特徴的な甕棺墓を見に行こうと思います。吉野ヶ里遺跡はとにかく広い!なのでこんな巡回バ...

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ども にぽぽです=*^-^*=
本日の日記は長いので、写真はサムネールにしてあります。大きい写真を見たい方はダブルクリックしてみてください。


吉野ヶ里遺跡を特徴づけるものに甕棺墓があります。
甕棺墓は、高さ1m以上の素焼きの巨大な土器を棺としたものです。

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九州北部の佐賀県東部と福岡県西部でとくに盛んにおこなわれた墓制です。
その特徴的な甕棺墓を見に行こうと思います。


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吉野ヶ里遺跡はとにかく広い!
なのでこんな巡回バスが走っています。

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吉野ヶ里遺跡の説明が聞けるようになっているので、出発時間までの待ち時間も退屈しませんよ。
ここも、人が近づくと突然映像が流れだす仕組みになっています。



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吉野ヶ里遺跡内のあちこちに墓所が作られていましたが、弥生時代中期前半になると、列状の大規模な墓地にまとめられました。

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発掘時の状況はこんなでした。

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甕棺墓地を詳しく見ると、列は20~40m前後の感覚で区切りがあることがわかりました。
おそらく一区切りが一つの家族というか血縁集団の墓域だと考えられています。

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それぞれの墓群のなかには、際立って大きな甕棺やほかの墓より広い墓域を持つもの、周囲を溝や祭祀土坑によって囲んだもの、土饅頭ではなく盛土をして小規模な墳丘を持っていた可能性のある墓所や墓域の中心に位置するものなど特別なものがあります。
そんな墓所には、南海(沖縄・奄美)でしか採れないのゴボウラ貝の腕輪や銅剣や鉄製品などを副葬してあり、集落の中に身分階層が生まれ始めていることを示しています。

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甕棺墓からは人骨や髪の毛も見つかりました。

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出土した人骨を分析したところ、成人男性で平均身長は162.4cmあり高身長であることがわかっています。中国の長江下級域から山東半島にかけての地域と朝鮮半島から出土した同時代の人骨と近い数値であるとされ、吉野ヶ里周辺の人骨の大半は高身長、高顔のいわゆる渡来系人骨であることが判明しています。

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甕棺墓から出土した人骨のなかには、石鏃が突き刺さったものや頭骨の無いもの、刀傷が存在するもの、大たい骨が折れたものなどがあります。
また人骨は残っていないものの、棺内から石鏃や石剣の先端部のみが出土した例もいくつかあり大半は戦いの犠牲者と考えられています。

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北部九州地域では、このような戦いの犠牲者と思われる人骨が数多く出土していて、とくに中期の前半に多いそうです。
佐賀では吉野ヶ里遺跡周辺で多く見られ、『魏志倭人伝』に「倭国大乱」と書かれたような戦いが弥生時代後半に起こっていたのは間違いない事実でしょう。



次は、吉野ヶ里遺跡を保存することを決定づけた「北墳丘墓」を見に行きましょう。

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墳丘墓は、吉野ヶ里遺跡の北側にあり、南北約40m、東西27m、盛土の高さは4.5mの平面角丸長方形をしています。
今からおよそ2100年前の弥生時代中期に築かれました。

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外環濠の外から墳丘墓まで延びている道があります、
吉野ヶ里集落だけでなはく、周辺集落を含めたこの地域の「クニ」全体の人々が墳丘墓にお参りするための道であったと考えられています。



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ぐるりと周って・・・

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なんだかこの景色、出雲の「よすみ」(2015年2月8日の日記⇒神話の里出雲 王家の谷?!西谷墳墓群)を思いだすなぁ・・・

墳丘墓に入れるようになっています。

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そして、発掘した当時の甕棺墓の状態を大パノラマで見ることができます。

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本物の迫力というか、ものすごく興奮するんですけどっ。
私だけですか?変態なんでしょうか?

この墳丘墓からは、弥生時代中期前半から中頃にかけて14基の大型の成人用甕棺が発見されました。
一番最初に埋葬されたのは、墳丘の中心にある甕棺墓であることが調査の結果わかりました。

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その後、南からほぼ逆時計回りに13基の甕棺墓が営まれ続けたことが、甕棺墓に使用された甕の編年から判明しています。

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墳丘墓の甕棺は内外面を塗料で黒く塗られ、内側はさらに当時非常に貴重な朱が塗られていました。

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全ての甕棺が大型の成人用で銅剣を副葬したものが多いことから、墳丘墓は家族墓ではなく身分の高い男性だけを埋葬した可能性が高く、吉野ヶ里を治めていた歴代の王の墓と考えられています。


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ここに王たちが埋葬されていた時期は100年に満たないのですが、墳丘墓の東側で発見された南北約50mの土坑に弥生時代中期後半から後期にかけて祭祀土器が継続して捨てられていたことが解っています。


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また、墳丘墓の前には祖先の霊が宿る柱と考えられている立柱と、歴代の王の祖霊へのお供えやお祈りを捧げる祀堂があり、墳丘墓への埋葬を終えた後も、長い間祖霊祭祀が続けられていたことが分かります。

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狩猟採集生活をしていた縄文時代は自然信仰、稲作して定住生活が始まった弥生時代に祖霊信仰が出現したんだな~って。
今の日本には、自然信仰もあるし、ご先祖様へお墓参りなんかもするし、これって縄文時代と弥生時代の両方が残っているっていうことなのかな。日本ってやっぱり面白い。



今日も最後まで読んでくれて、どうもありがとう~~~ヾ(^∇^)

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No Subject * by イノぶた
大きなツボが 棺だったのね
硬直前に入れてあげないと
なかなか大変そうですわね
よく古墳は 見るけど
中が見えるってなかなかないのでしょうか?
わくわくしますよ~ (私的には にぽちゃんの比ではありませんけど 笑)

墓参り習慣 なるほどですわね!