にぽぽのお散歩日記

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2019-09-14 (Sat)  16:21

佐賀 どしゃぶりの旧長崎街道 その1

ども にぽぽです=*^-^*=
本日の日記は長いので、写真はサムネールにしてあります。大きい写真を見たい方はダブルクリックしてみてください。



佐賀城下の西の入口、本庄江川に架かる“高橋”です。

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“高橋”は、天正19(1591)年に佐賀藩祖・鍋島直茂は佐賀城下が建設された時に架設されたと考えられています。
本庄江川から海路を通じて諫早方面などの有明海沿岸地域と結ばれていたので、航行する船の往来を便利にするため、橋桁を高く持ち上げて船の帆柱や竿が支障なく通るようにしたことが“高橋”の名の起こりと言われています。
“高橋”の市場には参集する船の積み荷が集まり、とても賑わっていたそうです。



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“高橋”を渡っている道は豊前小倉と長崎を結んだ長崎街道です。
長崎街道は、オランダとの窓口になっていた長崎から西洋の文化や新しい技術を伝える文明の道として重要な役割を果たしていました。
長崎奉行やオランダ商館長が江戸往来に利用し、シーボルト、ドイツ人医師ケンペル、オランダ商館医師ツュべリー、ゾウやラクダなどの珍獣もこの道を通って江戸へ向かいました。


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鍵型の辻路は、城下へ押し寄せる敵勢を本庄江でくい止めるために作られたと伝えられています。
この鍵の手のところに番所が設置され、城下に出入りする旅人たちを厳しく取り締まりました。


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街道沿いのあちこちに恵比寿さんがあります。
佐賀市は恵比寿さんの数が日本一だそうで、その数なんと820体以上。
佐賀市内の恵比須さん八十八体巡めぐりなんていうのもあるらしいです。恵比寿さんを巡ってみたい気もしますが、今日は長崎街道歩きということで。


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国道208号線に遮られてしまっていますが長崎街道は続いています。


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地蔵川に架かる地蔵橋。

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地蔵橋の西北にお地蔵さんが並んでいます。

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この辺りは嘉瀬郷八重宿と呼ばれる宿場町で、“高橋”から鍵の辻の番所までが高橋宿、番所から地蔵橋までが八戸宿、地蔵橋からが八戸新宿と、三つの宿に分かれていました。

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城下で最も古い生薬屋といわれる久保薬局。

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安政5(1858)年6月8日付の『久保家日記』には「明日、牛黄清心圓を調合したいという願いを好生館御役所に提出した」とあります。当時、佐賀藩には好生醫局という醫局があり、薬は醫局の役人立会いのもで調製されていたのです。

久保家が調合していた牛黄清心圓は、中国漢方医学書『恵民和剤局方』に記載されたもので、牛黄を生薬としたかんの薬とされ精神を安定させ、身体を強める薬として賞用されていました。



八戸新宿の辺りの道はギザギザになっています。

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これは「のこぎり型家並み」と呼ばれていて、佐賀城下への敵の進行を妨げるために、街道沿いの民家をわざと斜めにずらして、防衛体制を取った名残りと言われているそうです。



江戸時代から続く造り酒屋・枝梅酒造の建物が残っています。

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長崎街道に面した場所には母屋と精米所あり、その奥には仕込み作業所や蔵などがありました。

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現在、母屋・精米所と倉庫は佐賀市によって休憩所や食事処として運営され、それ以外の建物はNPOによって保存管理がなされています。


足元を見たら・・・

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側溝に江戸時代の街道の様子が描かれていました。
アピールが地味だけど、ちょっとほっこり。



八戸新宿は鯰橋までで終わり。

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鯰橋から先、長瀬町は佐賀城下西端にあたる町人地でした。

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旧城下町の道標が残っています。

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上部には方向を示すため人差し指を伸ばした手を浮彫りにし、その下に「ながさきへ、こくらみち」「いさはやとかいば(諫早渡海場)へ」と行き先の地名が平仮名で陰刻されています。

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この道標が作られた年代は明らかではありませんが、様式から江戸時代中期以降のものと考えられるそうです。


刀鍛冶の橋本左伝次(河内)屋敷跡。

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慶長のはじめ頃、佐賀郡長瀬村の鍛冶職人忠吉は、佐賀藩祖・鍋島直茂に見出され、京に上り刀鍛冶埋忠明寿に指示、腕を磨いて帰国、住居を長瀬村から城下町西に移住して鍛冶場を作りました。
この頃、この辺りにはまだ町名がなかったので、出生地の村名を取って長瀬町と名付けたといわれています。

初代忠吉は四十歳過ぎても男子が無かった為、長女の婿吉信の子河内大掾正廣を後継者として考えていたところ、妾腹に後年の二代近江大掾忠廣が生まれた関係で、実子の近江大掾忠廣は、父の鍛治屋敷の向かい側に新しく屋敷を設けて鍛刀していたようです。

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刀匠忠吉一門は9代まで継承され、見事な肥前刀を生み出しました。
当時の絵図にも、御刀鍛冶の「橋本近江」「橋本左伝次(河内)」は御免地のため特別に指名が記されています。



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長瀬町は職人の多い町で、御鞘師・御弓師・御鉄砲師などの武具を扱う御用職人や鋳物師の谷口家など、幕末には141世帯704人が住んでいました。



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「橋本近江」「橋本左伝次(河内)」の屋敷跡を過ぎると長崎街道は左に折れています。

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この道の突き当りに身代わり恵比寿がいます。

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戦時中に空襲と焼夷弾攻撃にあったため黒く焦げています。
この恵比寿さんの持ち主である古川家は、幸いにも疎開をしていたため被害にあわずにすみ、恵比寿さんが身代わりになって守ってくれたのだと大事にしているそうです。



長崎街道は、その身代わり恵比寿を右に曲がっています。

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築地反射炉跡の看板あり。

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寄ってみましょう。

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小学校に入っちゃいますが・・・行ってよさそうな雰囲気なので入っちゃいます。
立派な土俵!

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その横に反射炉。

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佐賀藩10代藩主・鍋島直正が作らせた日本初の実用反射炉です。
佐賀藩は当時、長崎の警備を担当しており、アジアへ進出していた欧米列強に危機感を抱き、いち早く西洋の技術を取り入れ、軍備の近代化に取り組みました。


築地の反射炉は、一冊の蘭学書(「ロイク国立鉄製大砲鋳造所における鋳造法」)を基に嘉永3(1850)年から建設されました。

はじめは鉄の溶解がうまくいかず失敗続きだったようですが、手引書となった蘭学書を翻訳した伊東玄朴らをはじめ、直正が育てた蘭学者たちの新しい知識、刀鍛冶橋本新左衛門や鋳物師谷口弥右衛門の伝統技術を結集した結果、嘉永5年(1852)5月には良好な溶鉄が得られるようになりました。

この後、韮山、薩摩、萩など日本各地で反射炉が建造されていきますが、鍋島藩はその技術援助に大きく貢献したそうです。

こんなに技術力があったのに、雄藩の順列は薩(薩摩)長(長州)土(土佐)肥(肥前)と、佐賀藩は最後。
なんですかねー、押しが弱いんですかねぇ・・・。



長崎街道に戻りましょう。

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長瀬町の次は六座町です。

六座町は佐賀城下で一番古い歴史を持った町で、佐賀藩祖・鍋島直茂は佐賀城下を整備した時に、中世に栄えた北郊の蠣久町から商人たちを呼び寄せて、独占的な商人の六つの集団”六座“を設けたことことが町名の由来と伝わっています。

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穀物座跡には、なんとお米屋さんが建っています。

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歴史の古いお米屋さんなのかしら・・・?


縫工座跡

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煙硝座跡

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木工座跡

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金銀座跡

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鉄砲座跡

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職種は大工が13人、御鉄砲台師・御用指物屋などの御用職人もおり、西隣の長瀬町と同様に職人町の様相を呈していながら、市場発祥の地として長崎街道佐賀城下の繁華街だったようです。幕末には77世帯385人が住んでいました。



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六座町の東端にある北面天満宮も頃蛎久から移されました。
棟門には水神の河童の木像が掲げられています。
昔、川で子どもがおぼれているのを河童が助けたという言い伝えがあります。それ以来、河童は棟門の上から番をしており、川に落ちる子どもがいなくなったと言われています。


当時南北にあった幅広の堀は埋め立てられていますが、天祐寺川は江戸時代と同じ流路をながれており、当時の風情を感じることができます。

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長崎街道は、また曲がります。

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曲がり角には道標。

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道標通りに曲がりましょう。

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道標が無かったら、うっかり真っ直ぐ行っちゃたかもなぁ~。

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伊勢屋本町と伊勢屋町の境、長崎街道が矩折れ(かねおれ)となった角地に伊勢神社があります。

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この伊勢神社は、天文11年(1542)年に伊勢神宮から神埼の田手に分霊を勧請したのが始まり。全国で唯一伊勢神宮の分霊を勧請できた神社だそうです。
永禄8(1565)年に蠣久へ遷座された後、佐賀藩祖・鍋島直茂による賀城下町の建設に伴い現在地へ遷座されました。

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境内には肥前狛犬が置かれています。

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肥前狛犬とは、江戸時代初期にほぼ佐賀県でのみ作られていた狛犬。
30センチほどの非常に小さなものがほとんどで、台座がなく、地面に直接置かれています。
目は小さく、口もあまり開けておらず、阿吽の区別もあまりはっきりしない・・・という特徴だそうです。
なんともユーモラス!


伊勢神社にお参りして、お散歩は一休み。
長崎街道歩きは次回も続きます~。





今日も最後まで読んでくれて、どうもありがとう~~~ヾ(^∇^)

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最終更新日 : 2019-09-21

No Subject * by イノぶた
ホントにぽちゃんの旅は すごいね!
いつ読んでも 興味津々で読んじゃいます
視点を変えると めっちゃユニークな道標!江戸時代で 指さし?! 笑)
確かに→ってのはないよね 
肥後狛犬も初めて聞いたよ!
私も2度しか行ったことないから
まだまだです 出島ぐらいしか触れてない新参者です。



No Subject * by ROUGE
にぽぽちゃん、お久しぶりです。
何気なく過去ログのコメント欄見ていて
URLクリックしてみたら
ブログが更新されてる!
ずっと更新無かったので、やめちゃったのかと(^^;
御元気そうで良かったです。

私はあれから、死の淵を行ったり来たりです(^^;

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No Subject

ホントにぽちゃんの旅は すごいね!
いつ読んでも 興味津々で読んじゃいます
視点を変えると めっちゃユニークな道標!江戸時代で 指さし?! 笑)
確かに→ってのはないよね 
肥後狛犬も初めて聞いたよ!
私も2度しか行ったことないから
まだまだです 出島ぐらいしか触れてない新参者です。


2019-09-16-18:58 * イノぶた [ 編集 ]

No Subject

にぽぽちゃん、お久しぶりです。
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ブログが更新されてる!
ずっと更新無かったので、やめちゃったのかと(^^;
御元気そうで良かったです。

私はあれから、死の淵を行ったり来たりです(^^;
2019-09-17-13:14 * ROUGE [ 編集 ]