にぽぽのお散歩日記

お散歩中の景色、美味しいもの、お気に入りのものを気のむくままに綴っています。

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2019-09-22 (Sun)

佐賀 佐賀城へ登城!

佐賀 佐賀城へ登城!

ども にぽぽです=*^-^*=本日の日記は長いので、写真はサムネールにしてあります。大きい写真を見たい方はダブルクリックしてみてください。遅筆すぎて旅が終わりませんが、佐賀城登城が佐賀の旅のオーラスです!長崎街道をずーっと歩いた後にたどり着いた佐賀城本丸入口の交差点。やっと着いたよ~と思うがしかしっ!跡の北側は、佐賀県庁など公共施設用地に転用されていますし、遺構が少なくて、いまいちお城感がピンときませ...

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ども にぽぽです=*^-^*=
本日の日記は長いので、写真はサムネールにしてあります。大きい写真を見たい方はダブルクリックしてみてください。


遅筆すぎて旅が終わりませんが、佐賀城登城が佐賀の旅のオーラスです!



長崎街道をずーっと歩いた後にたどり着いた佐賀城本丸入口の交差点。

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やっと着いたよ~と思うがしかしっ!

跡の北側は、佐賀県庁など公共施設用地に転用されていますし、遺構が少なくて、いまいちお城感がピンときません・・・。


現在地はここ。

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幅の広い堀がさらにグッと入り込んでいる辺り。

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この芝生も堀の跡で、向こうに見えているのは天守台跡。

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天守閣は享保11(1726)年に焼失した後は再建されなかったそうです。



そして鯱の門。

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天正9(1838)年に本丸正門として建設された貴重な現存建築物です。

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かつてあった本丸御殿の一部が復元されて、佐賀城本丸歴史館となっています。

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藩主など特別な人が利用する正面の御玄関(おげんかん)を入ると、お客様の応接や行事を行う場所として使われた御式台(おんしきだい)

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北廊下の突き当りは御三家座(ごさんけざ)。
小城家・蓮池家・鹿島家の御三家の部屋でしたが、佐賀城の復元家庭などが紹介されています。

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当時の絵図や写真を元に復元された部分がよくわかります。

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北廊下を通り、

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家臣の控えの間として使われた屯之間(たまりのま)に向かう廊下、

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さらに御三家や側近たちとの会議が行われた御小書院(ごこしょいん)に向かう廊下を通り、

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藩主の居室であった御座の間に向かう廊下。

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ここから雰囲気に重みがあるのは、雨なので雨戸が閉まっている暗さではなくて、御座の間だけが天保9(1838)年に佐賀藩10代藩主・鍋島直正が建設した現存建築物だからです。

一旦城外に移築されて昭和32年まで小学校の作法室として利用され、小学校の改築に伴い公民館として利用されていましたが、本丸歴史館の建設に合わせて元の位置に再移築されました。

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視線を感じで、で、出たー!?と思ったらば、

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10代藩主・鍋島直正さんと写真を撮ろ---のコーナーでした。
天気がよくて窓が開いてたら面白いかもしれないけど、この暗闇、恐いわっ!!



外側から見た御座の間

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当時は御座の間の周りにも多くの建物が建っていたので、戸を開けても壁しか見えない感じだったそうです。


本丸西側の出口へ。

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本丸御殿復元に伴い整備された石垣。

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石垣の前の芝も堀の跡。


こちらも復元された南西隅櫓台。

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最後に本丸南側の堀。

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佐賀城の堀は半端なく立派でありました。



長崎街道と佐賀城の登城を終えて佐賀駅までのバスを待っていたら、雨が上がり日が差してきました・・・チーン。

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今日も最後まで読んでくれて、どうもありがとう~~~ヾ(^∇^)

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No Subject * by イノぶた
ところどころ現存してる建屋があるんだぁ~
せっかくだから今後も復元されたらいいわね
鍋島さん!!とのツーショット場 
私 悲鳴上げちゃう!! 笑)
だってぇ~怖いの嫌いなんですよぉ~ 泣)
にぽちゃんんは ちゃんとツーショット撮ったのかな? ^^



2019-09-18 (Wed)

佐賀 どしゃぶりの旧長崎街道 その2

佐賀 どしゃぶりの旧長崎街道 その2

ども にぽぽです=*^-^*=本日の日記は長いので、写真はサムネールにしてあります。大きい写真を見たい方はダブルクリックしてみてください。伊勢神社でお参りを澄ませて、長崎街道に戻ります。伊勢神社から東へ向かうと、長崎街道は国道264号線に分断されているので横断歩道を渡る!国道を渡ると・・・護国神社手前で曲がる。多布施川に架かる善佐衛門橋。多布施町から伊勢町に通じる土橋が老朽化し通行が困難であったので、多布...

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ども にぽぽです=*^-^*=
本日の日記は長いので、写真はサムネールにしてあります。大きい写真を見たい方はダブルクリックしてみてください。


伊勢神社でお参りを澄ませて、長崎街道に戻ります。

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伊勢神社から東へ向かうと、長崎街道は国道264号線に分断されているので横断歩道を渡る!

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国道を渡ると・・・

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護国神社手前で曲がる。

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多布施川に架かる善佐衛門橋。

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多布施町から伊勢町に通じる土橋が老朽化し通行が困難であったので、多布施の資産家の宇野善佐衛門さんが明和元(1764)年自費で石橋に掛け替えを行ったものだそうです。

橋を渡ったところにある恵比寿さんは、善佐衛門恵比寿。

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間違いに気付いた瞬間!

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長崎街道は善佐衛門橋を渡り直進していたのですが、間違えて右に曲がってしまいました。


そして長崎街道に戻った瞬間(笑)

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ここまででお気づきかもしれませんが、長崎街道は道にベージュ色の塗装がされています。
気が利いているぞ佐賀県!

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旧中町にある江戸恵比寿

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この恵比寿像が作られたのは寛政5(1793)年で、佐賀市内で最も古い像の一つだそうです。


江戸恵比寿が見守っている岩永家は、江戸中期から商売をはじめ、小間物屋、米屋、そして現在はスーパーと歯科クリニックを営んでいるそうです、すごい!!

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岩永家のスーパーの近くには、やはり古くから商いを行っていそうなお店がありました。

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この辺り、江戸時代も商店の立ち並ぶ場所だったのかな~。

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鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を勧請した佐賀八幡宮と楠正成・正行父子を祭神とする楠神社のところで街道は四辻になっています。

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街道といえばおなじみの“札ノ辻”、法令などを掲示する高札場があったところです。
ここが佐賀城下を貫く長崎街道のほぼ中央に当たります。


長崎街道は、商店街のアーケードに入っていきます。

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この日はあいにく(というか、雨女のにぽぽにとっては覚悟の上の)雨。
アーケードで雨をよけられるのはありがたいし、お茶をするところもなく歩いてきたので一休みしたいところ。

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トネリコカフェさんのお店の前に、佐賀のご当地グルメ「シシリアンライス」の看板を見つけて、お店の中にまっしぐら!


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シシリアンライスとは、ご飯の上に甘辛いタレで炒めた薄切り肉と玉ねぎを乗せ、その上にレタスやトマト、きゅうりなどの生野菜を盛り付け、仕上げにマヨネーズをかけた料理だそうです。

起源や名称について誰も分かっていないらしいですが、「昭和50年頃に佐賀市中心街にある喫茶店で誕生した」、「エビやいかを使ってイタリアのシチリア島をイメージした」というような噂があるらしいです(笑)。

サラダうどんならぬサラダご飯というか、なんというか。
レタスとご飯の組み合わせは今ならあまり抵抗ないですけど、昭和50年頃と考えれば、逆に進んでるメニューだったんじゃないかな~。



長崎街道はなおも東へ続いていきますが、にぽぽは街道を外れて、もう一つの目的である佐賀城へ向かいます。
長崎街道と直角に交わる白山町。

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この辺りは佐賀城下33町のうち初期に整備された町の一つです。
この辺りには藩外の使者などを迎える客屋や、佐賀の名薬である萬金丹を製造販売した武富家などの薬種店、書店などが軒を連ね賑わっていて、旅人の目には「城下のうち一番の町並みなり」と映ったそうです。

南に向かっている道は中央大通り。まっすぐ進んでいくと、やがて佐賀城に行きつきます。


中央大通りに交わる八幡小路。

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先ほど歩いてきた佐賀八幡宮がもともとこの辺りにあったことに由来する小路で、通りの両側に中級クラスの武家の屋敷が並んでいました。武家屋敷の門が残っているので、小路に入って歩いてみます。

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豊増家(旧鍋島監物屋敷)の門。

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正面向かって左側に二階建ての番所があり、右側には籠を納める倉庫があります。

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八幡小路沿いの家の敷地は、今でもとてもゆったりと広く、江戸時代からの中級武士の屋敷割が残っている感じがしました。
かつてのこの通りには、こんな門がどの家の前にもあったのだろうと、しばし妄想。


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中央大通りに戻ってきました。


八幡小路の次は中之小路。

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角には百貨店の佐賀玉屋があります。
ちなみに、佐賀玉屋は文化3(1806)年に田中丸善蔵さんが荒物屋「田中丸商店」として創業した流れをくんでいます。


中之小路は、大名小路とも呼ばれ、家老などの重臣が多く住み、藩内の寺社を管理する寺社方などの役所もありました。
今、この通りには佐賀地方裁判所や佐賀地方検察庁が建っています。

街歩きをしていると、土地の歴史ってつながっていくんだなーと感じることがありますが、ここも、そんなことを感じた場所でした。



中之小路の次が松原小路。

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松原川に面した武家地です。お城のすぐそばなので、かつて通行者が城内を見通せないよう松の樹林があったことに由来します。

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旧嬉野家の武家屋敷の門が残されています。

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嬉野家は佐賀県西南部の杵島・藤津地方を中心に勢力を持っていた武士で、13世紀の蒙古襲来でも活躍しました。
江戸時代に佐賀藩家臣団に組み込まれて天保3(1842)年に嬉野与右衛門がこの地に移り住んだとのこと。
屋敷地は約30間(60m)と広大だったそうです。


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松原川河童水園なんていうものが整備されたり、石の河童像が置かれていたり、河童押しがすごいと感じながら歩くことしばし。

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なんと、松原河童社がありました!

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うわ~っ!参道が水路からあがっているじゃないですかっ!
久しぶりに、かっぱにぽぽの血が騒ぐわぁ~。

※かっぱにぽぽ(2010年8月6日の日記⇒台東区 かっぱの住む街 - その1 かっぱ寺 - )・・・人より多く水分を欲するようで、お散歩の度に頭のお皿が乾くことを自覚(好物はきゅうりのレモン漬け)故。


河童社の御祭神はかっぱさんではなく三柱の水神です。
水分神(みくまりのかみ)・・・流水を疎通分配することを司る神。
弥都波能売神(みつはのめのかみ)・・・水の女神。「みつは」から、水つ走で、水路を走る女神とされます。
闇淤加美神(くらおかみのかみ)・・・闇は渓谷、峡谷を意味し、淤加美は水を掌る龍神、蛇神とされます。

佐賀の地は海抜との差があまりない平野で、河川やクリークと呼ばれる水路が多く巡らされ灌漑用水や生活用水として重要な役割を担ってきました。治水がなされている今と違い、昔は水害が多くなくなる人も多かったそうです。
水路は水の流れを司る神様が祀られている意味が分かりますね。


河童社を摂社に持っているのは松原神社。

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境内には、大楠があります。

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先ほどの河童社の他、たくさんの摂社を抱えています。


松原稲荷神社。

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何故か大音量で童謡を流している松原恵比寿。

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縁結びの樹らしい、松原椰木社

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そして松原神社の拝殿。

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松原神社と横向きにくっついている佐嘉神社との境に松根社。

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表にまわって、佐嘉神社。

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なんで神社が横向きにくっつているんだろうと思って調べてみますと、そもそもは安永元(1772)年も鍋島家の始祖・直茂を祀るために日峯大明神として創建され、文化14(1817)年に祖父鍋島清久と直茂公室の鶴姫を合祀、明治5年に佐賀藩初代藩主となった鍋島勝茂を合祀し松原神社に改称。

明治6年に佐賀藩10代藩主・鍋島直正を祀り、さらに鍋島家だけでなく、鍋島氏以前に佐賀を納めていた龍造寺家も祀り、大正12(1912)年に佐賀藩11代藩主・鍋島直大が合祀。昭和8年に佐嘉神社が創建されて、松原神社の鍋島直正を遷座、昭和23年に佐賀11代藩主の鍋島直大の霊を遷座しているそうです。

戦が無くなり平和になった江戸時代に各藩で藩祖を祀る神社が創建されており、松原神社もその一つだということですが、佐嘉神社が造営されたのは昭和になってからなんですね・・・。

と、いうことで狛犬さんを見つつ、

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佐嘉神社でお参り。

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佐嘉神社には、日本最初の鋳造鉄製150ポンドカノン砲が置いてあります。

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10代藩主・鍋島直正が、長崎警備増強の必要性を痛感して築造した反射炉で鋳造した鉄でつくったやつですね。
この大砲は、当時品川砲台に備えられたもののひとつを復元した物。

佐賀では大晦日に行われる新年へのカウントダウン後、このカノン砲をぶっ放すらしいです。


佐賀藩は鳥羽伏見の戦いには参戦しませんでしたが、江戸無血開城後に勃発した戊辰戦争には新政府軍として参戦しています。
会津でも函館でも、旧幕府軍は佐賀藩のカノン砲やアームストロング砲にやられたんだわ。うぅぅ・・・涙。



さあ、佐賀城に向かいましょう。

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内堀が広いーーーーーっ!!!

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現在地、堀を渡ったここです。

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ものっすごい土砂降りになってるし、靴もびしょびしょだしーーーー。

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県立図書館の1階のカフェで一休み。

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いやいや~・・・よく歩いたので、甘いものが滲みますわ~。



充電できたところで、再び雨の中を進め、進め~~っ!

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佐賀は本当に水路が多い。

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たどり着きました!佐賀城本丸入口の交差点!!

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ここが現在地!

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次回は本丸へ突入します。






今日も最後まで読んでくれて、どうもありがとう~~~ヾ(^∇^)

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2019-09-14 (Sat)

佐賀 どしゃぶりの旧長崎街道 その1

佐賀 どしゃぶりの旧長崎街道 その1

ども にぽぽです=*^-^*=本日の日記は長いので、写真はサムネールにしてあります。大きい写真を見たい方はダブルクリックしてみてください。佐賀城下の西の入口、本庄江川に架かる“高橋”です。“高橋”は、天正19(1591)年に佐賀藩祖・鍋島直茂は佐賀城下が建設された時に架設されたと考えられています。本庄江川から海路を通じて諫早方面などの有明海沿岸地域と結ばれていたので、航行する船の往来を便利にするため、橋桁を高く...

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ども にぽぽです=*^-^*=
本日の日記は長いので、写真はサムネールにしてあります。大きい写真を見たい方はダブルクリックしてみてください。



佐賀城下の西の入口、本庄江川に架かる“高橋”です。

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“高橋”は、天正19(1591)年に佐賀藩祖・鍋島直茂は佐賀城下が建設された時に架設されたと考えられています。
本庄江川から海路を通じて諫早方面などの有明海沿岸地域と結ばれていたので、航行する船の往来を便利にするため、橋桁を高く持ち上げて船の帆柱や竿が支障なく通るようにしたことが“高橋”の名の起こりと言われています。
“高橋”の市場には参集する船の積み荷が集まり、とても賑わっていたそうです。



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“高橋”を渡っている道は豊前小倉と長崎を結んだ長崎街道です。
長崎街道は、オランダとの窓口になっていた長崎から西洋の文化や新しい技術を伝える文明の道として重要な役割を果たしていました。
長崎奉行やオランダ商館長が江戸往来に利用し、シーボルト、ドイツ人医師ケンペル、オランダ商館医師ツュべリー、ゾウやラクダなどの珍獣もこの道を通って江戸へ向かいました。


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鍵型の辻路は、城下へ押し寄せる敵勢を本庄江でくい止めるために作られたと伝えられています。
この鍵の手のところに番所が設置され、城下に出入りする旅人たちを厳しく取り締まりました。


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街道沿いのあちこちに恵比寿さんがあります。
佐賀市は恵比寿さんの数が日本一だそうで、その数なんと820体以上。
佐賀市内の恵比須さん八十八体巡めぐりなんていうのもあるらしいです。恵比寿さんを巡ってみたい気もしますが、今日は長崎街道歩きということで。


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国道208号線に遮られてしまっていますが長崎街道は続いています。


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地蔵川に架かる地蔵橋。

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地蔵橋の西北にお地蔵さんが並んでいます。

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この辺りは嘉瀬郷八重宿と呼ばれる宿場町で、“高橋”から鍵の辻の番所までが高橋宿、番所から地蔵橋までが八戸宿、地蔵橋からが八戸新宿と、三つの宿に分かれていました。

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城下で最も古い生薬屋といわれる久保薬局。

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安政5(1858)年6月8日付の『久保家日記』には「明日、牛黄清心圓を調合したいという願いを好生館御役所に提出した」とあります。当時、佐賀藩には好生醫局という醫局があり、薬は醫局の役人立会いのもで調製されていたのです。

久保家が調合していた牛黄清心圓は、中国漢方医学書『恵民和剤局方』に記載されたもので、牛黄を生薬としたかんの薬とされ精神を安定させ、身体を強める薬として賞用されていました。



八戸新宿の辺りの道はギザギザになっています。

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これは「のこぎり型家並み」と呼ばれていて、佐賀城下への敵の進行を妨げるために、街道沿いの民家をわざと斜めにずらして、防衛体制を取った名残りと言われているそうです。



江戸時代から続く造り酒屋・枝梅酒造の建物が残っています。

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長崎街道に面した場所には母屋と精米所あり、その奥には仕込み作業所や蔵などがありました。

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現在、母屋・精米所と倉庫は佐賀市によって休憩所や食事処として運営され、それ以外の建物はNPOによって保存管理がなされています。


足元を見たら・・・

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側溝に江戸時代の街道の様子が描かれていました。
アピールが地味だけど、ちょっとほっこり。



八戸新宿は鯰橋までで終わり。

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鯰橋から先、長瀬町は佐賀城下西端にあたる町人地でした。

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旧城下町の道標が残っています。

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上部には方向を示すため人差し指を伸ばした手を浮彫りにし、その下に「ながさきへ、こくらみち」「いさはやとかいば(諫早渡海場)へ」と行き先の地名が平仮名で陰刻されています。

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この道標が作られた年代は明らかではありませんが、様式から江戸時代中期以降のものと考えられるそうです。


刀鍛冶の橋本左伝次(河内)屋敷跡。

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慶長のはじめ頃、佐賀郡長瀬村の鍛冶職人忠吉は、佐賀藩祖・鍋島直茂に見出され、京に上り刀鍛冶埋忠明寿に指示、腕を磨いて帰国、住居を長瀬村から城下町西に移住して鍛冶場を作りました。
この頃、この辺りにはまだ町名がなかったので、出生地の村名を取って長瀬町と名付けたといわれています。

初代忠吉は四十歳過ぎても男子が無かった為、長女の婿吉信の子河内大掾正廣を後継者として考えていたところ、妾腹に後年の二代近江大掾忠廣が生まれた関係で、実子の近江大掾忠廣は、父の鍛治屋敷の向かい側に新しく屋敷を設けて鍛刀していたようです。

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刀匠忠吉一門は9代まで継承され、見事な肥前刀を生み出しました。
当時の絵図にも、御刀鍛冶の「橋本近江」「橋本左伝次(河内)」は御免地のため特別に指名が記されています。



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長瀬町は職人の多い町で、御鞘師・御弓師・御鉄砲師などの武具を扱う御用職人や鋳物師の谷口家など、幕末には141世帯704人が住んでいました。



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「橋本近江」「橋本左伝次(河内)」の屋敷跡を過ぎると長崎街道は左に折れています。

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この道の突き当りに身代わり恵比寿がいます。

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戦時中に空襲と焼夷弾攻撃にあったため黒く焦げています。
この恵比寿さんの持ち主である古川家は、幸いにも疎開をしていたため被害にあわずにすみ、恵比寿さんが身代わりになって守ってくれたのだと大事にしているそうです。



長崎街道は、その身代わり恵比寿を右に曲がっています。

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築地反射炉跡の看板あり。

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寄ってみましょう。

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小学校に入っちゃいますが・・・行ってよさそうな雰囲気なので入っちゃいます。
立派な土俵!

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その横に反射炉。

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佐賀藩10代藩主・鍋島直正が作らせた日本初の実用反射炉です。
佐賀藩は当時、長崎の警備を担当しており、アジアへ進出していた欧米列強に危機感を抱き、いち早く西洋の技術を取り入れ、軍備の近代化に取り組みました。


築地の反射炉は、一冊の蘭学書(「ロイク国立鉄製大砲鋳造所における鋳造法」)を基に嘉永3(1850)年から建設されました。

はじめは鉄の溶解がうまくいかず失敗続きだったようですが、手引書となった蘭学書を翻訳した伊東玄朴らをはじめ、直正が育てた蘭学者たちの新しい知識、刀鍛冶橋本新左衛門や鋳物師谷口弥右衛門の伝統技術を結集した結果、嘉永5年(1852)5月には良好な溶鉄が得られるようになりました。

この後、韮山、薩摩、萩など日本各地で反射炉が建造されていきますが、鍋島藩はその技術援助に大きく貢献したそうです。

こんなに技術力があったのに、雄藩の順列は薩(薩摩)長(長州)土(土佐)肥(肥前)と、佐賀藩は最後。
なんですかねー、押しが弱いんですかねぇ・・・。



長崎街道に戻りましょう。

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長瀬町の次は六座町です。

六座町は佐賀城下で一番古い歴史を持った町で、佐賀藩祖・鍋島直茂は佐賀城下を整備した時に、中世に栄えた北郊の蠣久町から商人たちを呼び寄せて、独占的な商人の六つの集団”六座“を設けたことことが町名の由来と伝わっています。

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穀物座跡には、なんとお米屋さんが建っています。

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歴史の古いお米屋さんなのかしら・・・?


縫工座跡

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煙硝座跡

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木工座跡

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金銀座跡

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鉄砲座跡

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職種は大工が13人、御鉄砲台師・御用指物屋などの御用職人もおり、西隣の長瀬町と同様に職人町の様相を呈していながら、市場発祥の地として長崎街道佐賀城下の繁華街だったようです。幕末には77世帯385人が住んでいました。



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六座町の東端にある北面天満宮も頃蛎久から移されました。
棟門には水神の河童の木像が掲げられています。
昔、川で子どもがおぼれているのを河童が助けたという言い伝えがあります。それ以来、河童は棟門の上から番をしており、川に落ちる子どもがいなくなったと言われています。


当時南北にあった幅広の堀は埋め立てられていますが、天祐寺川は江戸時代と同じ流路をながれており、当時の風情を感じることができます。

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長崎街道は、また曲がります。

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曲がり角には道標。

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道標通りに曲がりましょう。

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道標が無かったら、うっかり真っ直ぐ行っちゃたかもなぁ~。

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伊勢屋本町と伊勢屋町の境、長崎街道が矩折れ(かねおれ)となった角地に伊勢神社があります。

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この伊勢神社は、天文11年(1542)年に伊勢神宮から神埼の田手に分霊を勧請したのが始まり。全国で唯一伊勢神宮の分霊を勧請できた神社だそうです。
永禄8(1565)年に蠣久へ遷座された後、佐賀藩祖・鍋島直茂による賀城下町の建設に伴い現在地へ遷座されました。

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境内には肥前狛犬が置かれています。

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肥前狛犬とは、江戸時代初期にほぼ佐賀県でのみ作られていた狛犬。
30センチほどの非常に小さなものがほとんどで、台座がなく、地面に直接置かれています。
目は小さく、口もあまり開けておらず、阿吽の区別もあまりはっきりしない・・・という特徴だそうです。
なんともユーモラス!


伊勢神社にお参りして、お散歩は一休み。
長崎街道歩きは次回も続きます~。





今日も最後まで読んでくれて、どうもありがとう~~~ヾ(^∇^)

おでかけ日記ランキング
No Subject * by イノぶた
ホントにぽちゃんの旅は すごいね!
いつ読んでも 興味津々で読んじゃいます
視点を変えると めっちゃユニークな道標!江戸時代で 指さし?! 笑)
確かに→ってのはないよね 
肥後狛犬も初めて聞いたよ!
私も2度しか行ったことないから
まだまだです 出島ぐらいしか触れてない新参者です。



No Subject * by ROUGE
にぽぽちゃん、お久しぶりです。
何気なく過去ログのコメント欄見ていて
URLクリックしてみたら
ブログが更新されてる!
ずっと更新無かったので、やめちゃったのかと(^^;
御元気そうで良かったです。

私はあれから、死の淵を行ったり来たりです(^^;

2019-09-08 (Sun)

佐賀 復元された弥生集落 吉野ヶ里遺跡 その4

佐賀 復元された弥生集落 吉野ヶ里遺跡 その4

ども にぽぽです=*^-^*=本日の日記は長いので、写真はサムネールにしてあります。大きい写真を見たい方はダブルクリックしてみてください。いよいよ、というかやっとというか、吉野ヶ里遺跡散策も大詰め。「南内郭」の西側には、高床倉庫群と考えられる掘立柱建物群が少数の竪穴式住居跡とともに存在していました。掘立柱建物群は弥生時代後期から終末期にかけてもの物が主で、吉野ヶ里の集落のみならず、吉野ヶ里の「クニ」の...

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ども にぽぽです=*^-^*=
本日の日記は長いので、写真はサムネールにしてあります。大きい写真を見たい方はダブルクリックしてみてください。

いよいよ、というかやっとというか、吉野ヶ里遺跡散策も大詰め。

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「南内郭」の西側には、高床倉庫群と考えられる掘立柱建物群が少数の竪穴式住居跡とともに存在していました。

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掘立柱建物群は弥生時代後期から終末期にかけてもの物が主で、吉野ヶ里の集落のみならず、吉野ヶ里の「クニ」の物資を集積していた大規規模な倉庫群であったと考えられています。


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竪穴式住居は、倉庫群を守るために設けられていたと考えらえています。



この区域の中央には高層建物跡が見つかりました。

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ここで開催された市(いち)を管理する市楼(しろう)だったと考えられています。

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吉野ヶ里遺跡は、周辺の集落から多くの人が集まる中心的集落だったのだろうと考えられているのです。

市と倉
(地図はGoogle Earth を利用したもの)



最後は、当時の一般ピーポーが暮らしたエリアを見に行きます。

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「南内郭」に暮らしたリーダーたちを「大人(たいじん)」と呼ぶのに対し、一般ピーポーは「下戸(げこ)」と呼ばれました。

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現在は広場を中心に27棟の竪穴式住居や高床倉庫などが「南のムラ」として復元されています。

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吉野ヶ里遺跡は吉野ヶ里が一番栄えた頃である弥生時代後期(紀元1~3世紀)の様子を復元していますが、その起こりは弥生時代前期(紀元前5~前2世紀)で、この南のムラのエリアから徐々に北側に集落が広がっていきました。

吉野ヶ里全景
(地図はGoogle Earth を利用したもの)


南のムラでの注目は、弥生時代中期に築かれた祭壇と考えられる盛土遺構です。

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この祭壇からは貝殻や鳥の骨などを入れた壺が見つかっています。

不思議なことに、この祭壇と思われる盛土遺構は、南のムラの広場を突っ切って、北墳丘墓と相対するような位置にあります。

北墳丘墓と祭壇

北墳丘墓と祭壇にラインを引くと、「北内郭」の主祭殿の中心を通り、祭壇を超えた先には火山として有名な雲仙岳の尾根がそびえています。
いやー、すごいドラマティックな配置。


『魏志倭人伝』に書いてある邪馬台国の記述は
「祖賦を収む。邸閣有り。国々に市有り。有無を交易し」
「其の国、本亦男子を以て王と為す。住まること七、八十年、倭国乱れ、相攻伐すること暦年。乃ち一女子を共立して王と為す。名は卑弥呼と曰う」
「王となりてより以来、見ること有る者少なし。・・・宮室、楼観、城柵を厳かに設け、常に人有りて兵を持ちて守衛す」などです。

倭人たちは租税を納めており、邸閣とみられる大型倉庫があり、国々には市があり交易している・・・というくだりは、市が立っていた形跡の倉と市のエリアに合致。

卑弥呼が倭王として建てられた地方は男子が歴代の王となっており、70~80年感は戦いが続いていた・・・・というくだりは、甕棺墓の戦いの犠牲者の骨の発見や北墳丘墓に歴代の男子の王が葬られていていることに合致。

卑弥呼が居住し祭祀とり行った宮殿は、二重の環濠と物見櫓で閉鎖された「北内郭」の様子と合致。

やっぱり吉野ヶ里遺跡を見ると邪馬台国はここだったんじゃないかな~と浪漫を感じるのでした。



浪漫を噛みしめつつ、歩き回った一日の終わり。
お腹ペコペコの夕食に、佐賀駅北口にある“かど屋”さんにお邪魔しました。

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こじんまりとしていますが、清潔感のある店内は地元の人たちで賑わっていて、人気のあるお店なんだなーという感じ。
お通しのキャベツがめちゃくちゃ新鮮でシャッキシャキ。

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トマトを冷やしただけなんだからお店で頼まなくてもいいのにと思いつつ頼んでしまう・・・

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なんか好きなんですよねぇ、冷やしトマト(笑)。
でも、佐賀のトマトは大きくて肉厚でがっつり美味しかったです!


これを目当てにこのお店に来ましたよーーーーっ!

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佐賀牛ロースの溶岩焼き

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やばっ、うま~~っ。
美味しいもの食べた時、他になんて言えばいいんです?


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佐賀のお酒「万齢 純米吟醸」の杯をクイクイと開けながら、焼き鳥もスイスイ進んでしまいます。

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味噌味のネギ焼き。

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炭焼きしたネギって美味しいよね~。
というか、やっぱり佐賀の野菜は美味しいっ!!


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〆は明太の出汁茶漬け。

いやーーーー、佐賀はほんとーーーに美味しいっ!!
大満足の夜ご飯でした。


今日も最後まで読んでくれて、どうもありがとう~~~ヾ(^∇^)

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こんにちは^^ * by くろすけ
佐賀駅すぐそばの「かど屋」さん
私も訪れた事がありました
それも12年前・・・2007年の事です

随分、経っているのですが・・・
お写真をみて、確信^^
私が訪れた際、お店のスタッフさんが元気に良い感じ
その時の写真ですが
http://kuropht.pro.tok2.com/photo48/200707/070730t2.htm
http://kuropht.pro.tok2.com/photo48/200707/070730u2.htm
http://kuropht.pro.tok2.com/photo48/200707/070730s2.htm
http://kuropht.pro.tok2.com/photo48/200707/070730v2.htm
特に佐賀牛が美味しかったです・・・

まだ営業していたのも感慨深いです^^

No Subject * by イノぶた
吉野ケ里遺跡広いんだねぇ~ 笑)
私は どこを見たんだろ? 
ざっくり30分ほどいた気がしますが
サクッと説明してもらい 後にしたかな?
仕事の接待で行ったのですけど
ちゃんと回ると かなりの時間が必要ね

お肉も美味しそうだわ~ 
私は 家で山ほど食べる枝豆 
ついつい店でも頼んで 少な~い!!って叫ぶのです 笑)



2019-08-31 (Sat)

佐賀 復元された弥生集落 吉野ヶ里遺跡 その3

佐賀 復元された弥生集落 吉野ヶ里遺跡 その3

ども にぽぽです=*^-^*=本日の日記は長いので、写真はサムネールにしてあります。大きい写真を見たい方はダブルクリックしてみてください。吉野ヶ里遺跡を特徴づけるものに甕棺墓があります。甕棺墓は、高さ1m以上の素焼きの巨大な土器を棺としたものです。九州北部の佐賀県東部と福岡県西部でとくに盛んにおこなわれた墓制です。その特徴的な甕棺墓を見に行こうと思います。吉野ヶ里遺跡はとにかく広い!なのでこんな巡回バ...

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ども にぽぽです=*^-^*=
本日の日記は長いので、写真はサムネールにしてあります。大きい写真を見たい方はダブルクリックしてみてください。


吉野ヶ里遺跡を特徴づけるものに甕棺墓があります。
甕棺墓は、高さ1m以上の素焼きの巨大な土器を棺としたものです。

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九州北部の佐賀県東部と福岡県西部でとくに盛んにおこなわれた墓制です。
その特徴的な甕棺墓を見に行こうと思います。


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吉野ヶ里遺跡はとにかく広い!
なのでこんな巡回バスが走っています。

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吉野ヶ里遺跡の説明が聞けるようになっているので、出発時間までの待ち時間も退屈しませんよ。
ここも、人が近づくと突然映像が流れだす仕組みになっています。



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吉野ヶ里遺跡内のあちこちに墓所が作られていましたが、弥生時代中期前半になると、列状の大規模な墓地にまとめられました。

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発掘時の状況はこんなでした。

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甕棺墓地を詳しく見ると、列は20~40m前後の感覚で区切りがあることがわかりました。
おそらく一区切りが一つの家族というか血縁集団の墓域だと考えられています。

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それぞれの墓群のなかには、際立って大きな甕棺やほかの墓より広い墓域を持つもの、周囲を溝や祭祀土坑によって囲んだもの、土饅頭ではなく盛土をして小規模な墳丘を持っていた可能性のある墓所や墓域の中心に位置するものなど特別なものがあります。
そんな墓所には、南海(沖縄・奄美)でしか採れないのゴボウラ貝の腕輪や銅剣や鉄製品などを副葬してあり、集落の中に身分階層が生まれ始めていることを示しています。

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甕棺墓からは人骨や髪の毛も見つかりました。

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出土した人骨を分析したところ、成人男性で平均身長は162.4cmあり高身長であることがわかっています。中国の長江下級域から山東半島にかけての地域と朝鮮半島から出土した同時代の人骨と近い数値であるとされ、吉野ヶ里周辺の人骨の大半は高身長、高顔のいわゆる渡来系人骨であることが判明しています。

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甕棺墓から出土した人骨のなかには、石鏃が突き刺さったものや頭骨の無いもの、刀傷が存在するもの、大たい骨が折れたものなどがあります。
また人骨は残っていないものの、棺内から石鏃や石剣の先端部のみが出土した例もいくつかあり大半は戦いの犠牲者と考えられています。

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北部九州地域では、このような戦いの犠牲者と思われる人骨が数多く出土していて、とくに中期の前半に多いそうです。
佐賀では吉野ヶ里遺跡周辺で多く見られ、『魏志倭人伝』に「倭国大乱」と書かれたような戦いが弥生時代後半に起こっていたのは間違いない事実でしょう。



次は、吉野ヶ里遺跡を保存することを決定づけた「北墳丘墓」を見に行きましょう。

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墳丘墓は、吉野ヶ里遺跡の北側にあり、南北約40m、東西27m、盛土の高さは4.5mの平面角丸長方形をしています。
今からおよそ2100年前の弥生時代中期に築かれました。

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外環濠の外から墳丘墓まで延びている道があります、
吉野ヶ里集落だけでなはく、周辺集落を含めたこの地域の「クニ」全体の人々が墳丘墓にお参りするための道であったと考えられています。



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ぐるりと周って・・・

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なんだかこの景色、出雲の「よすみ」(2015年2月8日の日記⇒神話の里出雲 王家の谷?!西谷墳墓群)を思いだすなぁ・・・

墳丘墓に入れるようになっています。

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そして、発掘した当時の甕棺墓の状態を大パノラマで見ることができます。

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本物の迫力というか、ものすごく興奮するんですけどっ。
私だけですか?変態なんでしょうか?

この墳丘墓からは、弥生時代中期前半から中頃にかけて14基の大型の成人用甕棺が発見されました。
一番最初に埋葬されたのは、墳丘の中心にある甕棺墓であることが調査の結果わかりました。

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その後、南からほぼ逆時計回りに13基の甕棺墓が営まれ続けたことが、甕棺墓に使用された甕の編年から判明しています。

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墳丘墓の甕棺は内外面を塗料で黒く塗られ、内側はさらに当時非常に貴重な朱が塗られていました。

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全ての甕棺が大型の成人用で銅剣を副葬したものが多いことから、墳丘墓は家族墓ではなく身分の高い男性だけを埋葬した可能性が高く、吉野ヶ里を治めていた歴代の王の墓と考えられています。


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ここに王たちが埋葬されていた時期は100年に満たないのですが、墳丘墓の東側で発見された南北約50mの土坑に弥生時代中期後半から後期にかけて祭祀土器が継続して捨てられていたことが解っています。


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また、墳丘墓の前には祖先の霊が宿る柱と考えられている立柱と、歴代の王の祖霊へのお供えやお祈りを捧げる祀堂があり、墳丘墓への埋葬を終えた後も、長い間祖霊祭祀が続けられていたことが分かります。

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狩猟採集生活をしていた縄文時代は自然信仰、稲作して定住生活が始まった弥生時代に祖霊信仰が出現したんだな~って。
今の日本には、自然信仰もあるし、ご先祖様へお墓参りなんかもするし、これって縄文時代と弥生時代の両方が残っているっていうことなのかな。日本ってやっぱり面白い。



今日も最後まで読んでくれて、どうもありがとう~~~ヾ(^∇^)

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No Subject * by イノぶた
大きなツボが 棺だったのね
硬直前に入れてあげないと
なかなか大変そうですわね
よく古墳は 見るけど
中が見えるってなかなかないのでしょうか?
わくわくしますよ~ (私的には にぽちゃんの比ではありませんけど 笑)

墓参り習慣 なるほどですわね!